第6章エース栗原回想記
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  • 執筆者の写真エース栗原

第6章エース栗原回想記

更新日:2020年2月26日

2007-2008カーフマンシリーズ


インカレを終えて2年目のデュアスロンシーズンが始まる。ランナー出身の僕はデュアスロン適性があると信じて、デュアスロンの転戦シリーズであるカーフマンに参戦し始める。


当時のカーフマンシリーズは

《四天王時代》

王者 深浦祐哉選手

超ランナー 飯干守道選手

バイク巧者 高橋泰夫選手

クライマー 森正選手


レース展開は1stRunから四天王が逃げ、バイク集団となり、2ndRunで勝敗を分け合うような展開。僕ら若手は集団に入ることすら出来なかった。この四天王に割って入るのは誰か。それはいつになるのか。

埼玉県森林公園で開催されている北関東stageを経験した後、南関東stageでは学生日本一を競う選手権の部に出場。結果は7位!!

(チーム内の学生選手権出場者、こうぞう痩せてるな)

2年生で全国7位になったことは嬉しかったものの、このレースの優勝者は同い年の岡公記選手(関西大)!!準優勝は他大ではあるものの練習や遠征を共にしている嶋津拓哉選手(神奈川大)が入り、僕の目標とする選手になる。


そして僕はデュアスロン日本代表(U23)の選考会であるカーフマンチャンピオンシップ兼日本デュアスロン選手権に出場する機会を得る。

(当時の僕の目標である嶋津さん)

2008年5月。木曽三川公園@岐阜県

忘れもしないこの日は考えらないほどの爆風&灼熱のレースだった。しかも川沿いの往復コースのため、まじりっけのない追い風と向かい風の中で競技を進めなければならない。


1stRun10km-Bike40km-2ndRun5km

僕の記憶の中で伝説のレース。

四天王の一人で元箱根ランナーである飯干選手が1stRunから飛び出し、先頭で走り続ける。強風の中でどうかんがえても40kmのバイクを単独で走行するリスクは大きい。しかしそんなリスクをもろともせず、40kmのバイクも単独で逃げ切り、2008年の日本チャンピオンに輝く。


僕は嶋津選手とともにランを終えて、バイクへ。

(シューズはAir zoon katana racer3)

爆風の集団で僕は完全に実力不足。集団の前にでることが出来ない。

でもこの集団は世界選手権に行く集団だ。必至にそりゃ必至にくらいついた。脚が痙攣しながらこいだ。そしてバイクラスト1周(5km)で力尽きた。笑

2ndRun5kmは脱水症状でふらふらしながらフィニッシュへ進む。日本代表の基準をクリアするためには進み続けるしかない。『エースだろ?日本代表になるんだろ?』その想いだけが僕を前に進めていた。

そしてフィニッシュ。U23日本代表獲得!majide

何よりこの頃から長澤まさみと相武紗季は可愛い。

道は続いていく。


~当時のブログ~


次回、大学3年関東インカレのトラブルと全日本インカレの奇跡。


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