第15章エース栗原回想記
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  • 執筆者の写真エース栗原

第15章エース栗原回想記

更新日:2020年3月16日

2009~2010カーフマンシリーズと新天地。


2009~2010年シーズンは飛躍の一年だった。


関東インカレで4位入賞

東京都選手権で3位表彰台

全日本インカレで2年連続の5位入賞

世界選手権U23カテ6位入賞

アジア選手権U23カテ優勝

そして日本選手権優勝


デュアスロン転戦シリーズであるカーフマンチャンピオンシップではついに四天王と同じ集団でレースを進めることができた。いよいよここまで来たぞ。「四天王に挑む若き戦士たち」


7名の先頭集団は足も揃っていて、後続を寄せ付けない。何年か前に僕が憧れ目指していた集団にいる。その喜びをかみしめながらはしっていく。

キツいが楽しい。

これこそがスポーツなんだろう。

初めて先頭集団でバイクを終え、2ndRunでは四天王に及ばず5位でフィニッシュ。

そしてデュアスロンシーズンを終えた。

何度みても感動するこの時の振り返りムービー。

そして僕はデュアスロン日本チャンピオンと23歳という若さから新規のロードバイクチームの加入を決める。2011年末のことだ。


PURE HILLCLIMBER TEAM

VAXRACING


日本初のヒルクライムチームの誕生だった。

このチームのエースは、宇都宮ブリッツェンのクライマー長沼隆行選手(現さいたまディレーブ代表)、若松達人選手、入倉誠選手、そして僕。


自転車雑誌でも大きく取り上げられ、いよいよ僕も《プロ》としての道を一歩踏み出した。駆け抜ける相棒は国産バイクであるGRAPHITE DESIGN、競技ウェアはもちろんその他のウェア類、シューズ、ヘルメットやソックスなどすべてが支給され、そして広告塔として活動が始まる。


チームの監督だった馬場監督の口癖は

「アイコンになれ」

ヒルクライムシーズンが始まると全国各地で人気を高めていたヒルクライムレースを毎週のように転戦し、時にチャンピオンを目指すために、時にレースを盛り上げるゲストとして出演をしていた。

今まで上を目指すアスリートとして限られたエリアしか見てなかった僕にとって、VAX RACINGは新しい視点を与えてくれた。優勝の二文字だけでなく、ファンの方々に応援や観戦をしてもらっているという感覚があった。


この年(2011年)はトライアスロンには出場せず。というのも2009年お台場日本選手権。国内トライアスロンの最高峰の舞台で、スイム200m地点でコーナーの混雑時に前方選手のキックが顎にクリーンヒット。お台場の真っ暗な海に沈みかけた。笑

そしてスイム750mでリタイヤ。。。


そんな2011年VAX RACINGで過ごした時間はとても貴重だった。ヒルクライム成績はイマイチだったけど、何より輪業界の方々と多く広く繋がることが出来た。

赤城山ヒルクライム

Mt.富士ヒルクライム

チームカー

箱根ヒルクライム


次回、2011年アジアデュアスロン選手権チェンライ大会/タイと世界デュアスロン選手権ヒホン大会/スペイン🏴󠁧󠁢󠁳󠁣󠁴







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