第17章エース栗原回想記
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  • 執筆者の写真エース栗原

第17章エース栗原回想記

2012年山梨県と北杜市との出会い

世界選手権でのDNFから、大学院の忙しさを言い訳にしながら僕は体力をどんどんと落としていく。特にランの衰えは隠すことが出来ずに3連覇を目指した学生選手権も遠く及ばず学生5位という結果で終わる。


デュアスロン日本チャンピオン

という言葉がこの頃の僕には重く辛い、押しつぶされそうになっていた。


そして大学院を修了してからの僕はスコットライダーとして競技を行うにはサポートをしていただけていたが、生活するお金はアルバイトという大学院卒のフリーターになった。


16~22時:新宿の天ぷら屋さん

24~6時:豊洲のファミレス

というフリーター満喫生活。

競技を続けるにも生きるためにはアルバイトをしなければならなかった。僕が競技を行うことで生活できるような価値を生み出すことができていない。それがプロとは大きな違い。


そんな生活を送っていた時、大学院の教授から連絡が入る。


「栗原、今どんな生活送っているんだ?」

「競技はやっていますが、社会的にみればフリーターですね…」

「プロになるのは厳しいだろ?」

「成績が残せていないのでそうかもしれません」

「山梨の私立高校で教員募集しているから挑戦してみないか?」

「山梨のどこですか?」

「甲斐市(かいし)ってところだ」

「かいし・・・??」

「元々教員志望だったんだし、次の夢を叶えよう」

「そうですね。ありがとうございます!」


そして僕は採用試験に合格し、山梨県に移住を決める。

フリーター生活からの大きな転換を迎えた。両親に急遽就職が決まったこと、そして縁も所縁もない山梨県に移住することを話すと、返事をこうだった。


「あなたがやりたいなら、そうしなさい」


2012年5月28日山梨県に移住。


僕は安心していた。


フリーターから社会人になれたこと。そして

元日本チャンピオン

という紹介をこの山梨県ならばされずに済むから。


大学一年生の時に「エース栗原です」と名乗っていた僕は山梨にきてから"エース"とは名乗らなった。縁も所縁もなく、住む場所すら探していなかったのでまずは生徒と同じ寮生活から開始!


共同のトイレ、風呂場、洗濯機。

見た目もチビガリなので生徒にタメ口であることはしばしば。笑

教員になってからは、仕事を言い訳にして練習をせず、過去の栄光によるプライドだけはどこかに抱きながら生活をしていた。


ある日、仕事が早く終わった時に、ふっと『走ってみよう』と思った。それは学生の時のように速くなるためとか強くなるためではなく、純粋に身体を動かしたいという想いからだった。


あの時走りながら見た景色に一人で感動していた。

これが走るという原点のような部分と山梨の持つ魅力に。


少しずつ体力を回復させていく中で、後輩の叔父にあたる方が僕を訪ねてくる。それは山梨県の北部に位置する北杜(ほくと)市の駅伝監督だった。


「栗原くん、甥っ子から名前は聞いているよ。トライアスロンでスゴイ成績を残しているんだってね」

「速かったのは前の話ですが、、、」

「実は山梨県一周駅伝という各市町村のランナーが集って競う、駅伝大会があるんだ。この駅伝の北杜市代表として是非走って欲しい」

「僕がですか?!」

「北杜市代表で走るために、北杜市に住んで住民票を移動して欲しい」

「ん~、わかりました!」


山梨県に移住する際にスポーツの部分では誰にも知られずに山梨県で就職をしていた僕を、最初に見つけてくれたのが北杜市駅伝監督だった。駅伝チームのメンバーの紹介で北杜市の中でも一番南に位置する(学校への通勤がしやすい)須玉町のアパートを紹介してもらった。


東京から山梨へ。

山梨の中でも北杜市へ。

北杜市の中でも須玉町へ。


さらに『走る』という共通項が潤滑油となり、北杜市での人間関係がスムーズに広がっていった。そんな激動の2012年。


人生という道のりは途切れることがない。

偶然のように当然のように道が続いていく。



次回、山梨~滋賀自走ライド!初の結婚式参列。


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